のぼうの城を訪ねて

行田市にある忍城は、日本三大水攻めにあった城の一つとされています。
豊臣秀吉の小田原城攻めの際に、石田三成が秀吉の命によって攻め立てた城です。
はじめはすんなり明け渡す手はずとなっていましたが、秀吉側の使者、軍師長束正家の傲慢な振る舞いに怒った総大将、成田長親は戦をすると宣言してしまいます。
石田勢2万人超に対して農民を含めても3千人強の成田勢、数の上でも明らかに劣勢です。
更にこの総大将、成田長親という人物、将に求められる武勇も智謀も持たない、普段から農民や下級武士からでくの坊を略して「のぼう様」と呼ばれているようなお人です。
しかし、こののぼう様、一つだけ他人に好かれる才能、特に異常な程民に「人気」があったのです。
のぼう様と呼んでいても、それは決して軽蔑してそう呼んでいるのではなかったのです。
むしろ親しみを込めた呼び方だったのです。
しかし多勢に無勢、これはどう見ても城方に勝機はありません。
果たしてどうなっていくのか。

DSC_0002_e1np12


DSC_0012_e1np17


DSC_0013_e1np17


DSC_0034_e1np12

はじめは降伏してすんなり城を明け渡す手はずになっていたのを、相手方の傲慢な振る舞いに怒って決戦を決めたのぼう様の意気を感じた重臣達をはじめ、成田勢民百姓の気勢も上がりました。
地の利と士気の高さから緒戦は忍城側の圧勝でした。
攻めあぐねた光成は、広大な地域をすっぽり囲む堤防を作り、水攻めを敢行します。
お金にものをいわせ10万人を超える作業者を集め、瞬く間に堤防を築きあげました。
その中には、地元民も含まれていました。
敵味方ではない、お金を欲するところかそうなったのです。
そういう人の集まりでもあったのです。

堤防で囲った中へ利根川と荒川から水を引き込むと、忍城は大きな湖にポツンと浮かぶ城と化したのです。
このことから忍城は、別名忍の浮城とも言われています。
果たして忍城側の策は何かあるのか?
総大将、成田長親の策は、船をこぎ出して敵兵の前で田楽踊りを披露することでした。
この策にどんな意味が込められていたのか?
もはや勝ち目はないと開き直った行為なのか?

石田三成の指示で、雑賀衆が踊りを踊る長親を狙撃します。
幸い長親は一命は取り留めます。
堤防作りを手伝っていた百姓の中から、長親が撃たれたこと自分たちの水田を台無しにされた怒りから
堤防を壊しはじめるものが現れました。
かくして、水攻めは失敗と終わるのでした。
果たしてこうなることを予想して踊った田楽踊りだったのか?
策だったのか?
三成軍が総攻撃を行おうとしていた矢先、小田原城が落城したとの知らせが成田勢にもたらされ、
忍城も開城します。
小田原城落城まで持ちこたえた支城は、忍城だけだったそうです。
小説「のぼうの城」の内容から

昨年11月頃だったか、映画が公開されました。
残念ながら見に行けませんでしたが、本で読みました。
おもしろく読みました。
それ以来、一度その忍城へ行ってみたかったのです。


撮影  5月5日(日)
    D800  Nikon
スポンサーサイト
[ 2013/05/20 10:45 ] 史跡・神社・仏閣 | TB(0) | CM(0)

コメントの投稿













管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

この記事のトラックバックURL
http://hasemi.blog57.fc2.com/tb.php/2723-c4d993bb